短編の記憶

夏の思い出

 

 小学五年生の夕子ちゃんは、礼儀正しくて、ちょっと内気な女の子である。お父さんは「夕子は、まじめなんだよね」と言ってくれるが、本当はそんな自分があんまり好きではない。でも、まだ八月の半ばだというのに夏休みの宿題をすっかり終えてしまったのだから、やっぱりまじめな子なのである。

 そんな夏休み中のある日、夕子ちゃんは親友のともこちゃんと、ともこちゃんのお母さんの三人で、市民プールに遊びに行くことになった。集合場所のともこちゃんの家までは、一番近道を歩いて十分ぐらいの距離である。でも夕子ちゃんはちょっと遠回りをすることにした。というのも、ある知らない家のガレージにいる、白い大きな老犬の姿を見たいと思ったからだ。 
 めったに通ることのない道にある家なので、その大きな犬の存在に気付いたのは最近のことである。ある日通りがかりにふと車の入っていないガレージの奥を覗きこむと、犬小屋から半分体を出して気持ちよさそうに寝ている犬の姿が見えた。歳はとっているようだけど、とてもかわいらしい寝顔をしている。夕子ちゃんはその犬のことがすっかり好きになってしまった。以来、時々その家の前を通ってはガレージを覗き込んたりしていたのである。
 その家のある通りに入ったとたん、「あ」と、夕子ちゃんは少し驚いた。だって、いつもはガレージの奥にいるはずのあの犬が、その日はどういうわけか入り口の門につながれて、通りに立っていたからだ。そんな姿は、今まで一度も見たことがなかった。
 初めて日の当る場所でみる老犬は、優しそうな黒い瞳をしょぼつかせて、なんとなく立っていることが辛そうに見えた。もしかしたら体の具合が悪いのだろうか。
 どうしよう。夕子ちゃんは、手を伸ばせばすぐ届く所にいるその犬に触れるかどうか悩んだ。せっかくこんなに近くにいるのだから頭をなでてあげたいのだけれど、私のことを怖がって吠えたりしたらどうしよう、とか、家の人に怒られないかな、とか、色々考えてしまったのである。
 結局夕子ちゃんは、その犬のことを横目で見ながら、いつものようにそのまま通り過ぎることにした。いつかまたこうやって表につながれることもあるに違いない、その時はきっと頭をなでてあげようと、そう自分を納得させながら‥。

 友達と遊んだり、いなかに帰っておじいちゃんやおばあちゃんに会ったりと、楽しく過ごしてきた夏休みも気が付けばあと数日で終わろうとしていた。ともこちゃんはかなり宿題が残ったままだからと(お母さんにすごく怒られたらしい)、ここのところ、ぜんぜん遊んでくれない。
 そういえば、あの犬はどうしているだろう。ふと、夕子ちゃんは思い出した。表につながれていた姿を見て以来、一度も会いに行ってない。あの時はちょっと怖かったけれど、とても優しい目をしていたことをおもえば、きっと触っても怒ったりしなかったに違いない。そう考えると急にあの大きな老犬に会いたくなってしまった。
 次の日、近所の商店街までおつかいを頼まれた夕子ちゃんは、ちょうどいい機会なので、ついでにあの家の前を通ってみることにした。もしかしたら、また表につながれているかもしれない。飼い主さんが犬小屋で寝てばかりいる姿を見て心配になり、外に出してあげるようになったんだ。だから、毎日あんな風に外にいるに違いない。きっとそうだ。
 商店街からの帰り道、買い物の入ったビニール袋を右手にぶらさげた夕子ちゃんは、見慣れたガレージの前までやってきた。想像と違って、犬は表にいない。ということは、また以前のように犬小屋の中で寝ているのだ。じゃあ今日は触ることができないな、ちょっと残念に思いながら、夕子ちゃんは車の入っていないガレージの奥を覗き込んだ。いつもの犬小屋が目に入る。でも、そこには大きな体を窮屈そうに押しこんで寝ていたあの老犬の姿はなかった。

 かわりにそこにあったのは、一輪の花が活けられた、きれいな薄い緑色の花瓶だった。

  

 それから五年、十年と時は過ぎ、夕子ちゃんはすっかり大人になった。人生は、あの頃とくらべようがないほど忙しくなったはずなのに、夏が来ると今でもガレージの奥で寝ていた大きな老犬のことを思い出す。それはたぶん、あの時頭をなでてあげなかったことを後悔しているからだろう。ただ、だからといって以後の自分の中で何かが変わったかといえば、それは分からない。そんな自分を、あいかわらず好きにはなれないけど、でもこんな風には思うのだ。あんな後悔って、なるべくしないように生きていかなきゃなあ、と。

 

 

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