考え方 1

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クルマを走らせるのは楽しい

 免許を取得したら一日も早くクルマを自由に乗り回したい…そんな風に考えている若い方なら、きっと恐怖心も無くあっという間に上達してしまうことでしょう。車好きと言われる人は皆そんな感じです。免許を手にした翌日、親のクルマを勝手に持ち出して走りに出かけたりとかね(自動車保険の適用年齢は必ず確認してくださいよ)。
 しかしながら世の中当然そういう方ばかりではなく、中には仕事でどうしても必要になり、いやいや免許を取らざるを得なかった人もいると思います。向き不向きもあるし、人間、好きで始めたことじゃないとなかなかエエ感じにならないもので、ハンドルを握るのが不安だったり怖かったりといったこともあるかもしれません。でもそういう人ほど考え方次第でクルマが面白くなるかもしれませんよ。私はバイクでそれを経験しました。
 さて、教習所での日々が「教科書」であるとすれば、私がこれから述べるものは文字通り「誰かが書いたノート」です。つまりほとんどが経験に基づく自己流の考え方であり、参考にはなったとしても正解ではありません。優先すべきは教科書、ということです。

 

運転する上で最も重要なことは 

 とにかく教わった交通ルールを守る。それが一番重要です。絶対です。当たり前か。

 ここからが本題です。クルマを運転するということはどういうことでしょうか。
 それは「予測をすること」です。
 教習所でも話が出たかと思います。危険予知と言い換えても良いかもしれませんが、それも予測に基づくことになります。
 いつ何をと問われれば、「常に全てを」と答えるしかありません。クルマの運転はまさに予測そのものであり、これは昼間の一般道を走行中でも真夜中のSSを全開で走っている時でも、予測対象が多いか少ないかの違いがあるだけで基本的には同じです。
 ただですね、実はその必要性をすっ飛ばす世の中になってきてはいます。そう、アイサイトなどの運転支援装置の存在です。今や人間より優秀な危険回避を行ってくれるものもあるようだし、特に私のように様々な機能が低下してきた、ろくでもないオヤジには強い味方となってくれることでしょう。
 とはいえ、今のところ飛び出しや異常接近などの「見えた(起こった)危険」を避けようとはしてくれるけど、「見えない(まだ起こっていない)危険」の予測については、まだあまり進んでいないような気がします(例えばカメラの視界に入る駐車車両の数に応じて制御を変えたりとかしているとは思うんですが)。

 では、その「見えない(まだ起こっていない)危険」とは何でしょうか。
 ここに一冊の本があります。「ドライビングテクニック」(パット・モス、エリック・カールソン共著)という本ですが、ご存じの方はおられないと思います。
 著者は1960年代に活躍したラリードライバーで、原著が書かれたのも恐らくその頃でしょう。そんな古い本に書いてあることに意味があるのでしょうか。あります。今だからこそ、です。
 第一章に「無事故=良いドライバーではない」という一項があるのですが、一例として無理な追い越しにより発生した衝突事故が挙げられています。日本人の感覚では追い越しをしようとしたドライバーに100%非がある、という所で思考は停止しますが、著者は別の側面に目を向けます。追い越されるクルマに、無謀な追い越しを「誘発する原因」があったとしたら、という話です。ここには自動車文化が成熟したヨーロッパの、クルマが勝手に走っているのではなく人間が走らせている、結局は人と人との関係なのだという大人の感覚が根底にある気がします。ええように言えばですけど。
 なんだか回りくどい言い方しかできなくて申し訳ないのですが、要するに自分がそれと気づかず事故の導火線になっていないか、常に「考える」ことがとても重要だと言いたいのです。今まさにその部分をクルマが担おうとしていますが、まだまだ完全ではなく、しかし人間はそこに強く頼り始めている、とても中途半端な状態です。だから「考える」ことは大切で、その結果例えば「俺は法定速度以内で走っているのだぞ」というプライドを捨てる必要があったとしても、誰も怪我をせずに済むなら(その場は、ですが)それに越したことはないと私は思うのです。

 さて、他にどんな「見えない(まだ起こっていない)危険」があるでしょうか。